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ぺぷしのーげん

アプリケーションエンジニア(C#er)による雑記ブログ

大河ドラマ真田丸のあらすじをまとめました|10分で分かる真田丸のストーリー

テレビ・ドラマ

f:id:hazakurakeita:20170107233309j:imageこんにちはKeitaです。皆さん昨年の大河ドラマ・真田丸は観ましたでしょうか。僕は久しぶりに最後まで観てしまいました(実は第2話だけ録画ミスで観てないっぽい。。)。今回は真田丸の最初から最後までのあらすじを1つの記事にまとめたいと思います。全部記憶の中で整理して書いているので細かいところはご容赦ください!

武田家の滅亡

堺雅人演じる主人公、真田源次郎は武田信玄の息子である武田勝頼の家臣、真田昌幸の次男です。真田昌幸は草刈正雄、長男である真田信幸は大泉洋が演じています。物語はこの武田勝頼が織田と徳川の連合軍に追い込まれるところから始まります。

次々と武田家臣が織田や徳川勢に裏切る中、父である真田昌幸は武田勝頼が生き残れるよう築城や戦力の立て直しに努めます。しかし、表では武田勝頼励まし、反転攻勢に努めていましたが、武田家は滅ぶことも予期していました。それでも家臣として最期まで武田勝頼に仕えようと考えていたようです。最後は真田昌幸の城まで退避して徹底抗戦しようと訴えましたが、他の家臣の策略もあり、武田勝頼はついに自害にまで追い込まれてしまいます。武田家は滅亡してしまいました。

 

天正壬午の乱

武田家が滅ぶと、武田家が治めていた山梨や長野県の領域は織田信長家臣のものとなります。真田家は武田家臣であるため、処刑されてもおかしくありませんが、真田昌幸は織田信長に頭を下げて従う姿勢を表明します。しかし策略上手な真田昌幸は上杉にも従う旨の手紙を送っており、これが織田家臣にバレて絶体絶命。これを「織田家臣が認められるまでの時間稼ぎだ」とトボけて難を逃れます。そして織田信長に「良い面構えじゃ」とだけ言われ、織田家臣となることが認められるのでした。

しかし、織田信長の時代はここから数か月で終わってしまいます。本能人の変で織田信長が死んでしまいます。このとき堺にいた徳川家康は死を覚悟しましたが、家臣の説得もあり、伊賀越えで国に帰ることを決意。あまりの劣勢ぶりに家康はパニック状態となります。

これを契機に旧武田家臣や周辺の大名が旧武田領にいる織田軍を攻撃し始めます。そんな中、西から北条が一気に領土を確保しに進軍して来ます。領土を確保しつつ上杉まで攻めようというのです。あまりの混乱ぶりに当初は真田昌幸もお手上げとなります。

2万という大軍を引き連れた北条勢に真田昌幸周辺の国衆は次々と従いますが、真田昌幸はすぐには従いません。最終的には上杉と北条に上手く取り入って、お互いの戦を回避させてしまいました。同時に南から旧武田領に徳川が進軍してきたので、大軍の北条勢は南進して真田昌幸の領地から撤退、上杉も内乱の沈静化で北に戻り、真田昌幸は戦をせずに戦国大大名を自領から追い返したのでした。

 

混乱に乗じて上田城を築城

しかし旧武田領をめぐる争いは終わっていません。真田昌幸は徳川と北条の戦に北条側として参戦することになります。が、徳川が窮地に追い込まれると、それを良いことに城の築城や領地の拡大という好条件で寝返りを提案します。猫の手も借りたい徳川は了承、北条は徳川に対し押し返され始め、和睦して戦を終わらせることになりました。このとき、真田昌幸の沼田城を保障した徳川が、沼田城を北条に渡すと約束してしまいます。この問題は長く尾をひくのですが、それは後ほど。最終的には徳川に大きく貢献した真田昌幸は難攻不落の上田城を徳川から築城を受けることに成功したのでした。

 

第一次上田合戦が起きる

徳川と北条が和睦し戦が終わると、真田は北条から沼田城の明け渡しを要求されます。現在の領地を保障するとした徳川の裏切り行為に猛抗議する真田でしたが、徳川は聞く耳を持ちません。その間に沼田城の明け渡しを要求してきた北条家の家臣を、沼田城の城主である矢沢頼綱が殺してしまいます。これで戦をする理由ができた北条は一気に沼田城へ大軍を向けることになります。

一方で真田昌幸は矢沢の血の気の多さに呆れながら、北条と戦になってしまったことに頭を抱えます。既に徳川の協力で上田城の築城が始まっており、ここで沼田城に援軍を送ると徳川の築城協力までもが白紙になってしまう。このため、真田昌幸は矢沢に沼田城を頑張って守ってもらおうと放置することにしました。あくまで家臣の独断で起きた戦で、真田と北条の国と国の争いではないという建前です。まるで政治家が「秘書がやったことですので」というのと同じですね。

 

矢沢頼綱の活躍と上田城の完成

大軍を率いた北条勢でしたが、矢沢頼綱の活躍により沼田城を落城させることに手間取ります。その間に上田では上田城が完成。城が完成したので、真田昌幸は徳川は用済みと言わん勢いで今度は上杉に接近します。そして上杉の協力で沼田城から北条勢を追い出し、同時に真田昌幸は徳川と縁を切ります。徳川家康はこれに怒り心頭でしたが、側室である阿茶の局に「殿は敵に城を作って差し上げたのですか?まあ、人が良いこと」とこれ以上にない皮肉を言われるのでした。

ここまでプライドを傷つけられてはもはや家康も許しておきません。すぐさま徳川は7000人にも及ぶ大軍を上田城に向け、真田征伐を開始するのでした。第一次上田合戦の始まりです。

 

第一次上田合戦

7000にも及ぶ徳川勢に対し、真田勢はたったの2000。完全に負け戦でしたが、真田昌幸には秘策がありました。真田信繁の挑発と様々な仕掛けで敵を城中におびき寄せ、手薄になったところを急襲。徳川勢は大混乱に陥りますが、さらに場外から真田信幸が攻めかかり、大打撃を受けます。なんとか逃げ延びた徳川の兵も増水した河川に多くが流されてしまいました。徳川勢の大敗です。城の中枢まで攻めてきた徳川勢が、真田昌幸の登場で大崩れ、撤退の流れは爽快でした。

勝利に沸く上田城でしたが、真田信繁は自分の妻が城にいないことに気がつきます。そして、場外で亡くなっているところを見つけ、真田の大勝利とはいえ悲しい結末となるのでした。

 

真田信繁が豊臣秀吉に仕える

ここから真田丸の第2章となります。真田信繁は上杉景勝に連れられて豊臣秀吉の城である大阪城に向かうことになります。そこで秀吉に気に入られた信繁は秀吉の馬廻衆として仕えることになります。馬廻衆とは今で言うSPのようなものです。

 

徳川家康が秀吉の家臣になる

上田の合戦で大敗した家康は更に激怒します。すぐに兵を整え、上田に攻め込もうとしていました。しかしそこで邪魔をしたのが秀吉です。天下人まであと一歩となった秀吉は惣無事令を出し、全国の大名に勝手な戦を禁じようとしていました。そのため家康にも真田への出兵に秀吉の許可を得るように圧力をかけたのです。徳川はまだ秀吉に対抗しうる実力をまだ持っていたので、無視して上田攻めを敢行しようとも考えましたが、秀吉の勢力は上田と反対方面に存在しており、上田攻め中に秀吉に攻められると致命傷になる可能性があるので許可を求めます。一方で秀吉は一度は許可を出し、出兵直前に許可を取り消すことで家康が秀吉の言うことを聞くかどうかを試すことにしました。結果は言うことを聞く流れとなり、そのまま徳川家康は秀吉の家臣となります。対抗勢力であった家康が家臣となったことで秀吉は天下人として全国に周知されていくことになるのでした。

 

北条征伐

豊臣秀吉は事実上の天下統一を達成していたわけですが、未だ従わない大大名がいました。それが関東の北条氏政と東北の伊達政宗です。秀吉は散々上洛し、秀吉の家臣となることを要求しましたが従いませんでした。そんな中、真田と北条はまだ沼田城の領土問題で争っていました。勝手な戦を禁じている秀吉は、豊臣家の仲裁の元、この問題を解決することにします。

結果として沼田領の3分の2が真田から北条へと引き渡されることに。これで北条氏政が上洛して秀吉に頭を下げてめでたしめでたし。とはなりませんでした。結局氏政は秀吉の家臣になるのが嫌だったのです。その間に北条家臣が真田領を攻めてしまい、勝手な戦を禁じる惣無事令違反を理由に秀吉は北条征伐を決定してしまいます。その数20万人を超える豊臣勢は北条勢を圧倒し、あっという間に北条家の本城である小田原城を包囲してしまいます。それでも北条氏政は強気の姿勢を崩さず、今の領地を維持できるなら頭を下げてやっても良いと言い出す始末。秀吉の怒りはピークに達します。

北条氏政は同盟国の伊達政宗が助けに来ることを最後のチャンスと待っていましたが、その伊達政宗も遂に秀吉に頭を下げます。白装束というパフォーマンスで今まで頭を上げなかったことを不問とし、豊臣家臣となったのです。

ついに最後の望みも絶たれた北条家。せめて北条氏政の命だけは助けてもらい、北条家を維持しようとする動きが北条内でも起き始めます。しかし氏政は首を縦に振りません。ついには側近の江雪斎も声を大にして氏政に詰め寄ります。

信繁も氏政を説得しようと小田原城に乗り込みますが、結果は失敗。まあ、天正壬午の乱で北条を裏切った真田の言うことなんて聞くわけないですが笑。

最終的に北条は秀吉に降伏。北条氏政は切腹を命じられます。他の大名が命乞いをしようとしましたが、当の本人である氏政が命乞いする気がないので諦めることに。真田昌幸も「死にたいなら死ね」と言って家康に怒られそうになりますが、続けて「生きていればチャンスはいずれ来る」と説得します。しかしこれにも応えず、北条家はここで取り潰しとなるのでした。

 

豊臣秀次の死

 豊臣秀吉はしばらく子供ができませんでした。そんな中、秀吉は竹内結子演じる茶々(淀殿)に片思いします。そのことを知っている新井浩文演じる加藤清正は、茶々に近づく男を暗殺していました。一方で茶々は真田信繁に脈ありのような、思わせぶりの態度を取ります。このままでは自分殺される!と思った信繁はできる限り距離を置こうと奮闘します。何度か秀吉から茶々との関係性を問われ危機を回避している間に、ようやく茶々秀吉の側室となることになりました。信繁はホッとするわけですが、一難去ってまた一難。秀吉の後継者問題がだんだんと露わになっていきます。

子供のいない秀吉は姉の息子である豊臣秀次に関白を引き継ぎ、後継者とすることにします。この秀次が人情味溢れる人である一方、なかなか頼りない男で、天下人としては若干の問題がある人物でした。そのため、秀吉から度々怒られ、その度に酷く落ち込みます。そんな中、ついに秀吉と茶々の間に男の子が生まれます。豊臣秀頼です。豊臣家にとってこれ以上にないめでたい話なのですが、豊臣秀次だけは顔面蒼白。秀吉にとって後継者は実子である秀頼であるべきで、秀次が後継者として現在立っているのは邪魔なのではないかと恐れたのです。その後も秀吉と秀次はコミュニケーションの行き違いもあり、どんどん意思疎通が悪い方へ悪い方へと進んでしまいます。

秀次の精神的な落ち込みや不甲斐なさに怒りと心配の気持ちが交錯する秀吉でしたが、そんな中、秀次が切腹自殺をしてしまいます。この緊急事態に秀吉は大激怒。事態収拾のために秀次が秀吉に謀反(裏切ること)を企んでいたということにし、秀次の身内から侍女(お手伝いさんみたいな人たち)全員処刑してしまいます。これにより豊臣秀吉の後継者は実子の豊臣秀頼となりました。

 

豊臣秀吉の死

豊臣秀吉の天下統一により日本には平和が訪れました。しかし、時間というのは残酷なもので、秀吉は後継者が育たぬまま老いていくこととなります。

そして後継者である豊臣秀頼がまだ5歳前後のときに秀吉は亡くなってしまいます。秀吉に仕えていた真田信繁は五奉行の1人である石田三成に仕えることとなります。そして、五大老と五奉行による政治が始まることになりました。

しかし五大老と五奉行の中でも力の差が大きく、特に徳川家康はブレーキをかける人間がおらず暴走していきます。これに対して石田三成は徳川家康の身勝手な振る舞いを糾弾しようとしますが、この三成が相当なコミュ障。諸大名が全然三成の味方にならず、それどころか嫌われ続けてしまいます。

上杉景勝が味方をし、徳川家康を直接糾弾しようとしますが、この景勝がまた頼りなく本番になるとビビり始めて声が小さくなってしまいます。結果、石田三成が一人で暴走し、家康を襲おうとしてしまい失脚することなります。

 

関ヶ原の戦い

その後も徳川家康の自分勝手な行動は続きます。そして家康に反抗的な態度を取っていた上杉景勝を征伐することにした家康は大軍を引き連れ会津へ。この大阪京都に家康が不在のチャンスを狙って石田三成を中心とした反徳川勢が兵を上げます。関ヶ原の戦いの始まりです。

 徳川家康の軍に加わって会津を目指していた真田昌幸は、上杉景勝と裏で繋がっており、密かに家康の首を狙っていました。しかし、石田三成らが挙兵したことで家康の会津攻めは中止に。昌幸の作戦は実行することができなくなってしまいました。

そして、豊臣につくか徳川につくかを話し合う親子3人。小さい勢力の真田は生き残るために昌幸の信繁は豊臣、信幸は徳川につくことにしました。これでどちらが勝っても一方が真田の家を存続させることができます。

 

第二次上田合戦

昌幸はすぐに石田三成に連絡をとり、徳川秀忠の大軍を上田で食い止めることを伝えます。その代わり、西軍が勝利した際には旧武田領すべてを真田の領地とすることを求めます。これは小大名の真田昌幸には強気の要望でしたが、秀忠本隊を関ヶ原に近づけず戦ができれば西軍が圧倒的有利なため、これを認め、昌幸も一気にヤル気となります。

そして第二次上田合戦が始まります。足止めが目的の昌幸は徹底的な嫌がらせと挑発を繰り返します。それに対して初陣である秀忠は翻弄され、混乱していきます。最終的に昌幸は一気に秀忠の首を取りに行きますが、関ヶ原への到着が急務であることを悟った秀忠が一歩先に上田を後にしていました。結果的に小数の真田勢が大軍の徳川勢を追い払った形となり、上田城は戦勝祝いで大盛り上がりとなります。大した被害もなかった昌幸と信繁だったので、これから関ヶ原へ向かう信幸は貧乏くじを引いたなと言っているのでした。しかしそんな宴の中、急な報告が入ってきます。

大軍と大軍がぶつかる大戦がたった1日で終わったということに困惑する上田城。西軍は大敗となり、真田昌幸と信繁は高野山の麓で幽閉されることとなるのでした。

関ヶ原は合戦シーンもなく、あっという間に終わりました。

 

九度山村での幽閉

真田昌幸の死

九度山村に幽閉された後、上田城主となった信幸は家康に改名を迫られ信之となります。そして父と弟の赦免のために動き続けます。その間にも徳川家康は征夷大将軍になり、徳川幕府ができ、秀忠が征夷大将軍となっていきます。そして遂に昌幸は家康の許しを得ることなく「豊臣と徳川が戦になったら豊臣につけ」という言葉を残し、この世を去ることになります。

 

信繁が大阪城入りを求められる

信繁が九度山村に幽閉されてから10年以上。もはやこのままこの田舎で一生を過ごすのかという気持ちも出てきた中、1人の来訪者が現れます。明石全登です。彼は豊臣と徳川が戦になること、そしてその戦に豊臣方として加わってほしいと伝えます。一度は断った信繁でしたが、昌幸の言葉もあり、大阪城入りを決めるのでした。

 

真田信繁が真田幸村に改名する

ここまで堺雅人演じる真田信繁と書いてきましたが、ドラマ中で信繁という名前はあまり出てきません。序盤は皆から源次郎と呼ばれています。大阪城でも源次郎と呼ばれていますが、途中から官位をもらい「左衛門佐」と呼ばれるようになります。が、以前から親しくしていた人は源次郎と呼び続けます。そして、豊臣と徳川の戦のため大阪城に向かう前に信繁は名前を変えることを決意します。1文字は兄が家康に命じられ泣く泣く捨てた父昌幸の「幸」。これに今までの人生で印象に残る単語から1文字とって新しい名前とすることにします。その1文字の決め方はくじ引き。そのくじは子である大助に選ばせます。

そこで選ばれたのは九度山村の「村」でした。長い人生で色々あったのに選ばれたのが九度山村かと驚きながらも、「幸村」という名前を見て真田幸村と名乗ることにしたのでした。幸村という名前の由来は諸説あるのですが、昌幸が大事な判断をくじで行っていたこともあって、この名前の生まれ方には大きな反響がありました。

 

大阪冬の陣

変装して大阪城入場に成功した幸村。主である豊臣秀頼をはじめ、その家臣や淀殿から歓迎を受けるも、城内は全国から集まった牢人衆ばかりで統率が全くとれていない状況。また、豊臣政権自身も政権能力が著しく失われており、秀頼の意志決定はまだ弱く、淀殿やその乳母である大蔵卿に振り回せれている有様です。戦の総大将すら決めることができず、有力者それぞれに軍団を任せて秀頼が形だけの総大将となることでようやく落ち着きました。

左から、真田幸村・毛利勝永・後藤又兵衛・長宗我部盛親・明石全登。これに豊臣家臣である大野治長や木村重成などが主力の軍勢となります。

 

真田丸の建設

ようやく軍団が決まったものの、徳川勢を迎え撃つ戦略はまったく議論が進みません。城に籠城するより打って出る方が圧倒的に有利であるにも関わらず、戦知らずの淀殿と大蔵卿が秀頼の身と牢人衆の裏切りを案じて反対。さらに根回しをして幸村以外の武将の多くが不利な籠城を支持してしまいます。幸村は根気よく説得し、全武将と秀頼に出陣の決意をさせますが、最後に淀殿が秀頼を説き伏せて一転籠城で決定してしまいます。ここで嘆いていてもしょうがないと、幸村は城の増築、つまりは真田丸の建築を進言することとなります。

 

冬の陣が始まる

まずは大助が徳川勢の前に出て相手を挑発します。これは第一次上田合戦のときに幸村がやったことと同じです。敵前で踊りを披露すると敵は激怒、すぐに追いかけてきました。大助はそのまま真田丸に逃げ込むと、徳川勢はその勢いで一気に真田丸に攻め込んできます。これは家康にとっては予想外の動きでした。

真田丸に罠が仕掛けられているとも知らない徳川勢は次々と真田丸に押し寄せてきます。これを迎え撃つ真田勢は鉄砲を集中的に打ち込み、敵に大損害を与えます。徳川兵は罠だと気づき引き返そうにも、後ろから次々と兵が殺到し、引き返せず鉄砲の餌食となっていきます。もはや真田丸で敵はパニックに陥ります。そして真田、豊臣勢の大勝利となりました。

 徳川の大軍が退却していくのをみて上杉景勝は驚き、そして感動します。ここに日の本一のつわもの、真田幸村が誕生した瞬間です。

 

大阪夏の陣

真田丸の戦いで大損害を受けた徳川勢。家康は一旦和睦するとみせかけ、真田丸と大阪城の外堀と内堀の一部を埋めてしまうことに成功します。一方大阪城では真田丸での勝利を聞きつけ全国から牢人が殺到します。冬の陣でお金を使いすぎた豊臣家は大量に集まった牢人を養う負担ばかり増えていき、また牢人の中には報酬に不満を持つものも出てきました。最終的には牢人衆を制御することができず、その動きを和睦破棄とみなした徳川家康が再び豊臣征伐を決めます。大坂夏の陣の始まりです。

 

後藤又兵衛と木村重成の死

先の和睦で真田丸と堀を失った豊臣勢は、城外で徳川勢を迎え撃つことにしました。しかし、真田丸の戦いのようにこれといった戦略がないまま徳川本隊とぶつかることになります。先頭に立っていた後藤又兵衛と木村重成は討死してしまいました。

迫りくる徳川の大軍に対し、有力武将を2名も失った豊臣勢。幸村は玉砕を覚悟し始めます。

 

豊臣勢の反撃

豊臣が勝利するには秀頼自らの出陣による士気の向上と、豊臣恩顧の徳川方の大名の士気低下しかないと幸村は考えていました。そうはさせまいと、家康は幸村が徳川に寝返るという噂を流し、秀頼が城から出られないようにします。この噂を覆すには自ら徳川本陣に突撃するしかないと考えた幸村は、豊臣全勢力で徳川勢に突撃を始めます。これが功を奏し、戦経験のない兵が多い徳川勢は総崩れ、徳川家康と秀忠は慌てて陣を捨てて逃げだします。

そして追い込まれた家康は自害することを決意します。が、まわりの家臣に止められてしまいます。

豊臣勢の圧勝となり、大野治長は最後に秀頼に出陣してもらい徳川勢にとどめを刺そうと考えました。しかし、秀頼の存在を示す馬印を掲げて大阪城に戻ってしまったため、豊臣の兵たちが秀頼が大阪城に逃げたと勘違い。一気に士気が下がり、そこを見計らって徳川勢が猛反撃を開始します。もともと数で優勢な徳川勢は態勢が整うと勝負になりません。豊臣勢は一気に崩壊してしまいました。

 

幸村と家康の最後の戦い

幸村は1人で家康のもとに向かい、大阪城で手に入れた騎馬用の最新式の銃で家康を狙います。家康も撃たれるのを覚悟で幸村に近づき、既に徳川の世は盤石であり、戦でしか自分の価値を示せないものが生きる場所はもうどこにもないと言います。しかし、月村はそれでも家康を討たねばならない理由があるわけです。幸村が家康に向って引き金を引こうとしたとき、間一髪で徳川秀忠が助けに現れ、幸村は敗走を余儀なくされます。

最後に寺に逃げ込んだ幸村は、もう全てが終わったことを悟り、佐助に「これまでだな」と言い首を出し、今までの想い出を回想するのでした。

 

おわり

最後は本多正信が信之に国づくりについての基本を伝えるシーンで終わります。伝え終わった後に正信に大阪からの報告を届けに来た使者がやってきて、信之の持っていた六文銭の紐が切れます。それで全てを悟った信之は「ゆくぞ」と行って再び歩き始めたのでした。

 

以上、僕の記憶からまとめた真田丸でした。石田三成や加藤清正、室賀正武やきりなど主要人物で全然文章化できなかった部分もありますが、おおまかな流れはこんな感じだったかなと。まあ、おおまかな流れは史実を調べれば良いだけなんですがね笑。最後になりましたが、1年間真田丸ありがとうございました!